娘の入塾の説明会で、学校の国語と入試の国語は違うという話を聞いた。
学校の国語は、鑑賞力を求められるのに対し、受験は正しく読み取ることを求められる。
物語であれば主人公の心情であり、説明文であれば作者の主張を正しく読み取ることである。
もう小学生の時に習った国語はすっかり忘れてしまっている。
が、確かに読書感想文とか、日記とか、作文とか、
「ぼくは~だと思いました」ということばかりを書いていたような気もする。
思ったことだから、正解も間違いもない。
「ふーん、そうおもったんだ。でも、どうして?」
「どうしても」
なんてつまらない時間が流れていたような。。
しかし、本当に正解はなかったのだろうか?
当時は、先生も怖かったので、生徒は先生の価値観を正解としていたような気がする。
道徳観のようなものだ。
その道徳の方向性から外れていたら、暗黙の了解で×だった。
その空気に気づいて、先生の顔色を見ながら、クラスの中で賛同者を集めるような、
つまり、その教室で受け入れられる価値観を発表できる子は、成績がよかったようだ。
そのカラクリに、気づかない子は、何をどう勉強したらいいかわからないという状況になってしまうだろう。
○や×でなく、
空気が読めるかどうか。
それを先生の主観で判断するというのが、学校の国語教育であるとは思いたくないのだが、どうなのだろうか?
行き過ぎた受験問題は別として、話の筋にのっとって、正解のある質問を問う、入試のための国語のほうが、すっきりしていて気持ちが良いのかもしれない。
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