ベトナムに訪問するまで、ベトナム戦争について学んだことがなかった。
この戦争はいつ始まって、いつ終わったのか、なんのための戦争だったのか。
1940年 9月 日本軍による仏印進駐
日本は、中国と苦戦を強いられていた。米国は中国へ、ベトナムを経由して中国に物資支援を行っていた。蒋介石を支援するルートなので、援蒋ルートと呼ばれていた。
三国同盟国であるドイツがフランスを破ったのをきっかけに、日本は、ベトナムに進駐した。麻袋が不足していた日本軍は、ベトナムの農民に米の代わりに麻をつくることを強要し、1944年の干ばつにより、大量の餓死者がでることとなった。
統治が難しくなった日本は、ベトナムの独立をみとめ、ホーチミンがベトミンを設立。ベトミンとは、ベトナムの独立を求めるベトナム独立同盟会である。
1945年 日本が敗戦し、その9月2日ベトナムは、ベトナム民主共和国を成立する。しかし、フランスがふたたび大戦の先勝国として、ベトナムを統治するために戻ってくる。
1946年12月 インドシナ戦争が勃発する。ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ共産党とフランスの戦いである。インドシナ共産党は、実質ベトナム人によって支配されていた。ロシアと中国は、インドシナ共産党を支援、アメリカはフランスを支援した。アメリカは、「ドミノ倒し」とよばれる世界の共産化を阻止しようとした。
1954年5月、このインドシナ戦争は、ディエン・ビエン・フーのフランス軍基地を4万人のベトミンの勝利でおわる。フランス軍は、1万人の捕虜と6千人の死者を出した。
1954年7月 ジュネーブ協定で、終戦処理を行うはずが、北緯17度を境に、北はベトナム民主共和国、南はベトナム共和国と、国を2分することとなった。フランスは、逃げだしたが、かわりにアメリカが南ベトナムを支援した。
アメリカは、米住経験があり、カトリックのゴ・ジン・ジェムを南ベトナムの大統領に任命する。しかし、ゴ・ジン・ジェムの仏教徒の弾圧をはじめとする独裁政治に、市民が反発、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)がうまれ内戦状態となる。
ケネディ大統領は、当時軍事顧問として、限定的に米軍を派遣していたが、ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領になってから、本格的に米軍を派遣することになった。その数、50万人という。
1964年 トンキン(東京)湾事件を契機に、米軍のB52による本格的な北爆がはじまる。また、ラオス、カンボジアを経由してベトコンに物資を輸送するホーチミンルートを封鎖するため、ラオスやカンボジアにまで爆撃を開始。農民の恰好でゲリラ戦をしかけるベトコンを防ぐため、枯葉剤を使用。今でも、その後遺症に苦しむ人がいる。
1968年 1月30日 テト攻勢 (Tet Offensive)
6万人のベトコンが、総攻撃をかけ、アメリカ大使館まで占拠する。
結果、ベトコンの死者3万人、米軍は1,500人の死者で、戦術的には大失敗に終わった。しかし、この報道が全米に反戦運動をひろげ、1969年7月ニクソン大統領が米軍撤退をはじめ、1973年に完全撤退をする。
反戦運動は、日本国内でも「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」が作家の小田誠を中心に結成され、米兵をソ連に逃がすなどの活動をしている。このころ、日本では学生運動に火がつく。
1975年3月 北ベトナムは一気に南ベトナムを占拠。
同4月30日に、南ベトナムは陥落。
1976年 ベトナム社会主義共和国となり、ベトナム戦争は終結を迎える。
急激な社会主義化は、南ベトナムから多くの難民をだし、世界中にボートピープルとして逃げた。日本でも、神奈川県大和市に、多くのベトナム難民が流れ着き、現在も日本に暮らしている。
その後、ドイモイ(刷新)政策により、ベトナム経済は、急速な復興を始める。
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