今週末は、イルームの最後のトレーニングでした。
土曜日の夜に富士に行ったのですが、ミゾレがふっており、辺りは白く、とても春とは思えない陽気でした。
当日は、朝から大雨が降っており、イルームを散歩に連れて行くこともできないまま、トレーニングに行きました。体力が有り余っているイルームは、兄弟達をみるととても興奮してなかなか落ち着いてくれなく、引っ張られるたびにその力に「大きくなったなあ」と感じました。
1年経つと兄弟でも、顔つきや体つきが違ってくるものです。
それでも、全頭ともいい子で、穏やかであることは、やはり遺伝なのでしょう。
来月26日から、みんな本格的なトレーニングに入るため、我々パピーウォーカーとはお別れですが、立派な盲導犬になってもらいたいです。
よくトレーニングに行くと、イルームの散歩量について聞かれます。
毎日少なくとも7km、平均で10km、週末には20km以上は散歩しています。
雨の日や、出張中は、散歩はしていません。
ご飯の量は、今は1回220gのドックフードを一日2回。
1回目は、朝5:30、2回目は夕方5時くらいにあげてます。
散歩をしない日は210gに減らします。
逆に20kmとか、散歩したときは240gあげるときもあります。
散歩の仕方は、基本は歩きです。
時間がないときや、ちょっと運動不足気味なときは、自転車をつかいます。
自転車のときの秘密道具は、WalkyDogです。
http://www.thedogoutdoors.com/walkydog-dog-bike-leash.html
イルームは、これをつかって散歩するのがとても上手です。
家の近所に、狭山湖・多摩湖をまわるサイクリングコースがあるので、安全に散歩することができます。うちの自転車は、タンデムバイクという二人乗り自転車で、後ろに子供を乗せて、イルームを横に走らせて散歩します。
でも、基本は「歩き」ですけど。
散歩は、朝から一気に10kmするときもありますが、朝晩にわけることもあります。
これも、仕事の状況によってです。
歩く速さは、大体時速4~5kmですから、10kmというと2時間は必要です。
散歩したくないときもしょっちゅうありますから、状況をかえながら散歩時間をつくります。
たとえば、家族で車で買い物に行くとき、行きか帰りはイルームと歩くことにするとか。
ちょっと遠出して、ショッピングセンターや、スーパー、ホームセンターに行くときは、かならず片道は歩きにします。レンタルビデオ屋にいくときも、往復あるきます。娘を駅まで送るときも歩き。息子を通学班までおくるときも歩き。
あと、iPhoneのアプリでCyclemeterという、移動の距離や地図を記録してくれるものを使っています。これがあると、どのくらい散歩したか記録することができて、ごまかすことができません。
散歩中にできることを見つけるのも続ける秘訣です。
スマートフォンがあれば、結構できることは多いです。
学生さんなら、英単語を覚えながら散歩するのはおすすめですね。
ちなみに、私の通勤時間は、電車で、片道約1時間ですので、平均的かと思います。
本当は、会社までイルームと歩いていきたいのですが、さすがにこれは無理です。
盲導犬の繁殖犬(♂)ボランティアをしています。 ブラックラブラドールのイルームは、パピー時代を我が家で過ごし、6か月盲導犬センターで訓練を受けたのち、繁殖犬になり、我が家に戻ってきました。 イルームが健康で恰好いいスタッドであり続け、沢山の盲導犬パピーを世に送り出すお手伝いをしています。
2013年4月22日月曜日
2013年4月10日水曜日
ベトナム戦争メモ
ベトナムに訪問するまで、ベトナム戦争について学んだことがなかった。
この戦争はいつ始まって、いつ終わったのか、なんのための戦争だったのか。
1940年 9月 日本軍による仏印進駐
日本は、中国と苦戦を強いられていた。米国は中国へ、ベトナムを経由して中国に物資支援を行っていた。蒋介石を支援するルートなので、援蒋ルートと呼ばれていた。
三国同盟国であるドイツがフランスを破ったのをきっかけに、日本は、ベトナムに進駐した。麻袋が不足していた日本軍は、ベトナムの農民に米の代わりに麻をつくることを強要し、1944年の干ばつにより、大量の餓死者がでることとなった。
統治が難しくなった日本は、ベトナムの独立をみとめ、ホーチミンがベトミンを設立。ベトミンとは、ベトナムの独立を求めるベトナム独立同盟会である。
1945年 日本が敗戦し、その9月2日ベトナムは、ベトナム民主共和国を成立する。しかし、フランスがふたたび大戦の先勝国として、ベトナムを統治するために戻ってくる。
1946年12月 インドシナ戦争が勃発する。ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ共産党とフランスの戦いである。インドシナ共産党は、実質ベトナム人によって支配されていた。ロシアと中国は、インドシナ共産党を支援、アメリカはフランスを支援した。アメリカは、「ドミノ倒し」とよばれる世界の共産化を阻止しようとした。
1954年5月、このインドシナ戦争は、ディエン・ビエン・フーのフランス軍基地を4万人のベトミンの勝利でおわる。フランス軍は、1万人の捕虜と6千人の死者を出した。
1954年7月 ジュネーブ協定で、終戦処理を行うはずが、北緯17度を境に、北はベトナム民主共和国、南はベトナム共和国と、国を2分することとなった。フランスは、逃げだしたが、かわりにアメリカが南ベトナムを支援した。
アメリカは、米住経験があり、カトリックのゴ・ジン・ジェムを南ベトナムの大統領に任命する。しかし、ゴ・ジン・ジェムの仏教徒の弾圧をはじめとする独裁政治に、市民が反発、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)がうまれ内戦状態となる。
ケネディ大統領は、当時軍事顧問として、限定的に米軍を派遣していたが、ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領になってから、本格的に米軍を派遣することになった。その数、50万人という。
1964年 トンキン(東京)湾事件を契機に、米軍のB52による本格的な北爆がはじまる。また、ラオス、カンボジアを経由してベトコンに物資を輸送するホーチミンルートを封鎖するため、ラオスやカンボジアにまで爆撃を開始。農民の恰好でゲリラ戦をしかけるベトコンを防ぐため、枯葉剤を使用。今でも、その後遺症に苦しむ人がいる。
1968年 1月30日 テト攻勢 (Tet Offensive)
6万人のベトコンが、総攻撃をかけ、アメリカ大使館まで占拠する。
結果、ベトコンの死者3万人、米軍は1,500人の死者で、戦術的には大失敗に終わった。しかし、この報道が全米に反戦運動をひろげ、1969年7月ニクソン大統領が米軍撤退をはじめ、1973年に完全撤退をする。
反戦運動は、日本国内でも「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」が作家の小田誠を中心に結成され、米兵をソ連に逃がすなどの活動をしている。このころ、日本では学生運動に火がつく。
1975年3月 北ベトナムは一気に南ベトナムを占拠。
同4月30日に、南ベトナムは陥落。
1976年 ベトナム社会主義共和国となり、ベトナム戦争は終結を迎える。
急激な社会主義化は、南ベトナムから多くの難民をだし、世界中にボートピープルとして逃げた。日本でも、神奈川県大和市に、多くのベトナム難民が流れ着き、現在も日本に暮らしている。
その後、ドイモイ(刷新)政策により、ベトナム経済は、急速な復興を始める。
この戦争はいつ始まって、いつ終わったのか、なんのための戦争だったのか。
1940年 9月 日本軍による仏印進駐
日本は、中国と苦戦を強いられていた。米国は中国へ、ベトナムを経由して中国に物資支援を行っていた。蒋介石を支援するルートなので、援蒋ルートと呼ばれていた。
三国同盟国であるドイツがフランスを破ったのをきっかけに、日本は、ベトナムに進駐した。麻袋が不足していた日本軍は、ベトナムの農民に米の代わりに麻をつくることを強要し、1944年の干ばつにより、大量の餓死者がでることとなった。
統治が難しくなった日本は、ベトナムの独立をみとめ、ホーチミンがベトミンを設立。ベトミンとは、ベトナムの独立を求めるベトナム独立同盟会である。
1945年 日本が敗戦し、その9月2日ベトナムは、ベトナム民主共和国を成立する。しかし、フランスがふたたび大戦の先勝国として、ベトナムを統治するために戻ってくる。
1946年12月 インドシナ戦争が勃発する。ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ共産党とフランスの戦いである。インドシナ共産党は、実質ベトナム人によって支配されていた。ロシアと中国は、インドシナ共産党を支援、アメリカはフランスを支援した。アメリカは、「ドミノ倒し」とよばれる世界の共産化を阻止しようとした。
1954年5月、このインドシナ戦争は、ディエン・ビエン・フーのフランス軍基地を4万人のベトミンの勝利でおわる。フランス軍は、1万人の捕虜と6千人の死者を出した。
1954年7月 ジュネーブ協定で、終戦処理を行うはずが、北緯17度を境に、北はベトナム民主共和国、南はベトナム共和国と、国を2分することとなった。フランスは、逃げだしたが、かわりにアメリカが南ベトナムを支援した。
アメリカは、米住経験があり、カトリックのゴ・ジン・ジェムを南ベトナムの大統領に任命する。しかし、ゴ・ジン・ジェムの仏教徒の弾圧をはじめとする独裁政治に、市民が反発、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)がうまれ内戦状態となる。
ケネディ大統領は、当時軍事顧問として、限定的に米軍を派遣していたが、ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領になってから、本格的に米軍を派遣することになった。その数、50万人という。
1964年 トンキン(東京)湾事件を契機に、米軍のB52による本格的な北爆がはじまる。また、ラオス、カンボジアを経由してベトコンに物資を輸送するホーチミンルートを封鎖するため、ラオスやカンボジアにまで爆撃を開始。農民の恰好でゲリラ戦をしかけるベトコンを防ぐため、枯葉剤を使用。今でも、その後遺症に苦しむ人がいる。
1968年 1月30日 テト攻勢 (Tet Offensive)
6万人のベトコンが、総攻撃をかけ、アメリカ大使館まで占拠する。
結果、ベトコンの死者3万人、米軍は1,500人の死者で、戦術的には大失敗に終わった。しかし、この報道が全米に反戦運動をひろげ、1969年7月ニクソン大統領が米軍撤退をはじめ、1973年に完全撤退をする。
反戦運動は、日本国内でも「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」が作家の小田誠を中心に結成され、米兵をソ連に逃がすなどの活動をしている。このころ、日本では学生運動に火がつく。
1975年3月 北ベトナムは一気に南ベトナムを占拠。
同4月30日に、南ベトナムは陥落。
1976年 ベトナム社会主義共和国となり、ベトナム戦争は終結を迎える。
急激な社会主義化は、南ベトナムから多くの難民をだし、世界中にボートピープルとして逃げた。日本でも、神奈川県大和市に、多くのベトナム難民が流れ着き、現在も日本に暮らしている。
その後、ドイモイ(刷新)政策により、ベトナム経済は、急速な復興を始める。
2013年4月8日月曜日
ベトナム戦争 ~デアハンター
ベトナムに訪問するまで、ベトナム戦争について考えたこともなかった。
何のために、いつはじまった戦争だったのか、まったく知識もない。
調べてみると、単純な背景ではないことは、わかった。
ベトナム戦争に関する映画を、レンタルDVDで観たが、アメリカ側からの視点によるものばかりなので、まったく真相は理解できない。
特に、デアハンターは、戦争の映画なのか、ロシアンルーレットの映画なのか、まったくわからない。ロバート・デ・ニーロの演技は、恰好よいが、ベトナム人が捕虜をつかまえてロシアンルーレットでギャンブルをしていたとは信じがたい。これは、いかにベトナム人が残虐であったかを植え付けるような、罪深い映画だと思う。
中国が反日映画をつくっているが、世界中でこういった洗脳映画って作られているんだと、再認識をした。
何のために、いつはじまった戦争だったのか、まったく知識もない。
調べてみると、単純な背景ではないことは、わかった。
ベトナム戦争に関する映画を、レンタルDVDで観たが、アメリカ側からの視点によるものばかりなので、まったく真相は理解できない。
特に、デアハンターは、戦争の映画なのか、ロシアンルーレットの映画なのか、まったくわからない。ロバート・デ・ニーロの演技は、恰好よいが、ベトナム人が捕虜をつかまえてロシアンルーレットでギャンブルをしていたとは信じがたい。これは、いかにベトナム人が残虐であったかを植え付けるような、罪深い映画だと思う。
中国が反日映画をつくっているが、世界中でこういった洗脳映画って作られているんだと、再認識をした。
2013年4月2日火曜日
フィリピンとベトナムに訪問して感じたこと
3月は、フィリピンとベトナムに出張に行ってきました。
両国とも初めての訪問でした。
フィリピンには、30年工場を経営している日本人経営者を訪問し、
ベトナムでは、ベトナム学生の日本への橋渡しの活動をされている方を訪問しました。
お二人を見ていて思うのは、それぞれの国に深い縁をお持ちなんだということです。その地域で、活動をすることが、お二人の使命なんでしょう。
フィリピンもベトナムも、明るい国民性です。
南国だから、果物が木になっている国だから、という解釈もあるのでしょうが、
長い苦難があるからこそ、過去や将来に不安を持つよりも今のことに明るく向き合うしかないということの表れなのではないかと思いました。
フィリピン人の武器は英語力です。
学生達は、みんな英語を習得するのに必死ですし、
そのレベルは、非常に高いです。
ベトナム人の武器は、手先の器用さではないでしょうか。
あちこちでモノづくりをする工場が沢山ありました。
どちらも国民にも、探究心が工場すれば、もっと産業は伸びるのではないかと感じました。
フィリピンは、国民を蔑ろにしている政治の腐敗がネックでしょう。
ベトナムは、やはり共産主義と民主主義のバランスが今後の課題でしょうか。
電気や、交通のインフラへの投資は、もっともっと必要でしょう。
10年後が楽しみな国であることには、間違えがありません。
両国とも初めての訪問でした。
フィリピンには、30年工場を経営している日本人経営者を訪問し、
ベトナムでは、ベトナム学生の日本への橋渡しの活動をされている方を訪問しました。
お二人を見ていて思うのは、それぞれの国に深い縁をお持ちなんだということです。その地域で、活動をすることが、お二人の使命なんでしょう。
フィリピンもベトナムも、明るい国民性です。
南国だから、果物が木になっている国だから、という解釈もあるのでしょうが、
長い苦難があるからこそ、過去や将来に不安を持つよりも今のことに明るく向き合うしかないということの表れなのではないかと思いました。
フィリピン人の武器は英語力です。
学生達は、みんな英語を習得するのに必死ですし、
そのレベルは、非常に高いです。
ベトナム人の武器は、手先の器用さではないでしょうか。
あちこちでモノづくりをする工場が沢山ありました。
どちらも国民にも、探究心が工場すれば、もっと産業は伸びるのではないかと感じました。
フィリピンは、国民を蔑ろにしている政治の腐敗がネックでしょう。
ベトナムは、やはり共産主義と民主主義のバランスが今後の課題でしょうか。
電気や、交通のインフラへの投資は、もっともっと必要でしょう。
10年後が楽しみな国であることには、間違えがありません。
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