蒙古襲来と言えば、
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
です。
第1回目の襲来がある前、フビライハンは、何度か日本に威圧的ではあるが、国交を結ぼうという手紙を出しています。
これを日本は、無視しました。
で、「バカにするな」ということで、
責めてくるわけです。
私が学校で習ったことは、
「神風が吹いて、負けそうになっていた日本は、一夜にして救われた」でした。
そして、第2回目も台風で救われたというのが、授業内容だったと理解しています。
疑問を感じたのは、
第1回目と2回目の間に、元は再び使者を日本に送っています。
この使者6名を日本は、斬首したのです。
そして、2回目が起きた。
かろうじて、1回目に勝つことができた日本が、
使者を斬首するという強気な外交をしたのでしょうか?
調べてみると、
1回目に、神風または台風があったいう記述は日本側にはありません。
これは、高麗史に書いてあったのです。
想像するに、
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日本は苦戦を強いられるものの、かなり強く、結果、元・高麗軍をやっつけた。
高麗は、元に日本攻めを進めていたたので、
この被害は、フビライハンに、報告することができなくて、
天候の責にした。
日本は、元・高麗軍の実力のほどを知ったし、
今度は、準備もしていたので、
勝てる自信があったから、使者の首を斬った。
第1回目の報告をきちんとされていないフビライは、
では、もう一度責めようとなった。
そして、今度もさんざんの目にあわされ、上陸することができなかった。
日本は、海に待機する元・高麗軍に、夜襲をくりかえしたので、相手はかなりのパニックになっていた。そして、とどめの台風で、壊滅状態になった。
フビライは3回目もやる気だったが、
この時は、さすがに内部から反対が多かったという。
「日本は強いし、上陸したら四方八方から責められるので勝てない」
この事実を知ったので、3回目を止めた。
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さらに調べると、
蒙古襲来絵詞も江戸時代に書き加えられた(改竄された)ものだそうです。
この部分をみると以下にも、日本の武士が滅多打ちにされているようですが
後ろには、逃げ惑う元兵士がみれるし、来ているものも違う。
なぜ、日本が弱くて、かろうじて神風に助けられたという話になったのかは、
謎が残るが、常識的に考えれば、地形的な利点を生かした日本勢は強かったという理解の方が自然だと思う。